昭和46年02月19日 夜の御教話



 お互い生きる焦点というか、信心させていただくもの、本当の意味での焦点というか、もう焦点を間違えてないように、起きてまいりますことを、お願いをする、おかげを頂けるように、必ず空しゅうなる、お願いをしてどんなに、なら、専門家になったところで同じことがね。ですからね、信心の本当のところを焦点にしての信心じゃなからにゃいけない、これはまあいつも私申しますことですけれどね。
 私今晩、久しぶりあの、テレビちょっと見せてもらいましたら、「男わる教」かなんかという、なんと言うんでしょうかね、そこが分からんのですけれど、丁度今日はあの、「柳沢出羽守」ですかと、今日はあの「紀伊国屋文左衛門の出会い」のところがあっておりました、そして、紀伊国屋文左衛門の本当に様々な難儀、苦労をしてあれだけの財を築いて、そして築いて、もう、したいほうだいばっかししておる時に感じておることは、もう儲けることも損することにも関心がなくなったとこういう。
 いわゆる、空しゅうなったと言う事ですね、柳沢出羽守も、これはまあ才覚であれだけの権力をその時代の最高の権力者と言われるほどしの権力をほしいままにした人なんですけれども、それもぼちぼち空しさを感じ、おうている者出会えるところが一つあっておりましたね、本当に私は思いますよ、もう絶対ならもう、例えばその違いをですね、なら、億万長者なら億万長者と言う事のもし生きがいであって、その生きがいの達した時にはもう、絶対そこあるものは空しいものです。
 いわゆる儚(はかな)いと言う事なんですね、ですからならそんなら私どもが生きがいというのが、昨夜から私が申し続けておりますようにね、本当に一生をかかって自分の、まあ言うならば心に力を受けていっておる、言うならば、夜の御理解ですね、借りて言うといわゆる限りある人生、それにその限りないおかげね、の頂けれるその元というのは、しかも、それはあの世この世を通してのおかげの元になるんだと言う言を説いておりましょう、だから、私どもの焦点がそこにある限りですね。
 これはもうどれほどの事になり、どんだけ限りないおかげになって参りましても、そのおかげその物が目的じゃないですから、これはただついてきとるだけですからね、私共の生きがいをそこに置くそこに置くと、そこがね信心の眼目でなかなければならん、又教祖と天地の親神様が、どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよと仰るその事なんですからね、そこんところに本気でですね。焦点が変えられとらんとです、信心して御利益を受けると言う事だけであったら、もう絶対空しゅうなるだけこの後です。
 ですからもう一生ここにかけておると、いわゆるここに生きがいを感じると言うな生きがいが、いよいよ間違いのない、あの世この世を通して、いよいよ心が賑やこうなってくる、いよいよ有り難うなってくるとね、そこにいわゆる、限りのある人生を持ってさせて頂く修行によってですね、限りのないものに繋がって行こうという、ならおかげのね、今日はそのテーマを受けて頂いてね、もうこれは本当だなあと思いました、もうある意味でのその願いというものが成就されたらね。
 後は確かに空しいものですね、だから空しいという、そこからまた大きな信心が生まれると言う事もいえますがね、そこから信仰にに入ってくると言う事にもなってくる、例えばなんというのですか、石の丸の開会同士なんかはそうです、そこに、いよいよ空しさを感じた、栄耀栄華出来る、そこに空しさを感じた、そこから信仰の道に入ったという人もありますけれどね、私どもはそこんところを繰り返さんで済むようなね。間違いのないところに焦点を置いての信心の稽古でなかなきゃならんと言う事なんです。
   どうぞ。